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32話 四ヶ月前の朝

last update publish date: 2026-08-28 18:00:49

 残り四ヶ月になった日の朝、エリナは誰より早く起きた。

 別に意識したわけではない。目が覚めたら、まだ空が暗かった。もう少し眠れると思ったが、眠れなかった。

 台所に行って、湯を沸かした。

 薬草茶を作りながら、窓の外を見た。

 ルシェムの夜明け前の空は、濃い紺色だった。少しずつ、東の端が白くなっていく。

 四ヶ月。

 一年の任のうち、残りは三分の一を切った。

 エリナは湯呑みを両手で持って、少しだけ考えた。

 今、手元にあるものを確認する。

 ルシェム、ベルナ、ヴァロウ、トレネ、キーシュ。五つの町に供給が続いている。薬屋の第三者データが揃っている。学院での正式採用が継続している。王宮に定期的に数字が届いている。ベルダンが続けると言ってくれた。フィオナが王都にいる。レインが学院で動いている。

 積み上がったものは、確かにある。

 足りないものも、まだある。

 一年後に王宮に立つ時、何を持っていれば『父の改革案を再び議論する場』が開かれるのか。その基準が、まだ見えていない。

 レインが教えてくれた問いを、もう一度使った。

 『一年前の自分が今を見たら、驚くか?』

 驚く。

 でも、一年後の自分が今を見たら、どう思うか?

 その問いは、まだ答えが出ない。

 朝食の後、エリナはゴードンを呼んだ。

「残り四ヶ月で、王宮への最終報告に向けて何が必要か、整理したい」

「そうですね。そろそろ、逆算して考える時期です」

「ゴードンさんが思う、今の一番の弱点は何ですか」

 ゴードンは少し考えてから、答えた。

「数字の範囲です」

「範囲?」

「今の私たちのデータは、五つの町に限られています。ルシェムとその周辺。王宮への報告として、これが十分かどうか」

「足りないと思いますか」

「陛下は『いくつかの地方において』という言葉を使われました。五つの町で、十分といえるかどうか……クロヴェルが『一地方の話だ』と言った時に、今のデータでは反論が難しい」

「もっと広い範囲に広げる必要がある、ということですか?」

「四ヶ月で広げられる範囲には限界があります。でも、今ある五つの町のデータをより深くするか、あるいは別のアプローチを考えるか」

「別のアプローチとは?」

「例えば、学院のデータをもっと使う。学院は王都にある。王都での成果は、一地方の話では済まない」

「学院のデータを前面に出す、ということですか」

「学院の医療棟での感染率の低下は、王都の人間が直接確認できるデータです。ルシェムで起きていることより、王都の話の方が、会議の場では説得力が違う」

「レインに相談する必要があります」

「そうなりますね」

「今日中に手紙を書きます」

 午前中、エリナはレインへの手紙を書いた。

 ゴードンの指摘を正確に伝えた。学院のデータを最終報告の中心に据える可能性について、師匠と相談してほしいと書いた。

 最後に、一段落付け加えた。

 残り四ヶ月になった。今朝、早く目が覚めた。眠れなかったのは初めてではないが、今日は少し違う感じがした。残り四ヶ月という数字が、頭の中で静かに重くなっている。

 これは、「重い時」に当てはまりますか。あなたが言っていた意味の。

                                         ――エリナ――

 書いてから、最後の問いを少し見た。

 重い時に当てはまるか。

 レインに聞いてみたかった。

 前世でいえば、プロジェクトの最終フェーズに入った時の感覚に近い。緊張でも焦りでもない。ただ、時間の重さを感じる。

 それが『重い時』なのかどうか、自分では判断できなかった。

 封をした。

 昼過ぎ、マリオが市場から戻ってきた。

「調査員、また来てた」

「何日ぶりですか」

「三日ぶりだ。今日は一人だった。前は二人組だったのに」

「変化があった。フィオナに確認します」

「あと、市場の端の布屋の親父から、変な話を聞いた」

「変な話?」

「最近、王都から来た商人が、石鹸の成分を分析したいと言って、市場でサンプルを買い集めているらしい。布屋の親父は直接関係ないけど、近くで聞いてたって」

 エリナは少しだけ、眉を動かした。

「成分の分析、ですか」

「そう。別に、石鹸の成分なんか調べたって、大したことはないと思うけど」

「そうとも言えない。成分がわかれば、同じものを魔法省が作って、アッシュフォード商会を通さなくても配れるという論理を作れる」

「それって、まずいのか」

「石鹸が広まること自体は、構わない。でも、クロヴェルが作った石鹸が配られるようになれば、私たちのやっていることの意味が薄くなる。王宮への報告も、『商会の功績ではなく、魔法省が主導した成果だ』と言われるかもしれない」

「なるほど。じゃあ、どうする?」

「今すぐできることは、記録を残すことです。私たちが石鹸の普及を始めた経緯、時期、方法。それが先にあったという事実を、王宮の記録に残しておく」

「ゴードンさんに?」

「今日中に話します」

 ゴードンに状況を伝えると、すぐに動いた。

「王宮への定期報告に、普及の経緯を追記します。石鹸の開発がいつから、どのような手順で始まったか。最初の販売がいつだったか。各町への展開の時系列」

「お願いします。それと、学院の師匠にも伝えてもらえますか。学院での採用の経緯も、正確に記録しておいてほしい」

「レインさんへの手紙に加えますか」

「そうします」

 手紙にもう一段落追加した。

 追加で一つ。王都で、石鹸の成分分析を行っている動きがあるという情報が入った。対策として、普及の経緯の記録を残すことが必要だと考えている。学院での採用の経緯についても、時系列を正確に記録しておいてほしい。いつ、誰が、どういう判断で採用したか。

 封をして、速達で送った。

 夕方になって、フィオナから手紙が届いた。

 今日の朝に出した手紙への返事ではなく、昨日書いたと思しき手紙だった。

 エリナへ

 成分分析の件、私も把握している。動いているのはクロヴェル家の息がかかった商人だ。直接クロヴェルの指示かどうかは確認中。

 一つ、使える情報がある。

 学院での石鹸と消毒液の採用は、学院の公式議事録に記録されている。議事録には日付と採用の理由が明記されている。これは公文書だ。後から書き換えることは難しい。

 つまり、「魔法省が主導した」という論理を作ろうとしても、学院の採用がアッシュフォード商会の商品を元にしていることは、議事録が証明する。

 対策としては、王宮への定期報告にも同様の記録を入れておくことだ。あなたたちが先にやっていたという事実は、記録があれば消えない。

 ゴードンさんがすでに動いていると思うが、確認しておいて。

 それと、調査員が一人に減ったのは、こちらの情報では予算の問題らしい。意外と地味な理由ね。

 残り四ヶ月ね。あなたがどんな顔で王宮に立つか、見たい気もするけど、私は王都にいるから見られないかもしれない。残念。

                                         ――フィオナ――

 エリナはフィオナの手紙を読んで、少しだけ口の端を動かした。

 予算の問題。

 意外と地味な理由、というフィオナの一言が、妙に可笑しかった。

 『残念』と書いたフィオナの顔を、想像した。

 王都に一人でいて、情報を集めて、こういう手紙を書いている。

 フィオナが王都にいてくれることが、どれだけ大きいか、改めて感じた。

 返事を書いた。

 フィオナへ

 議事録の話、ありがとう。ゴードンさんとレインに伝えた。公文書が証拠になる、という視点は私には出てこなかった。あなたがいてくれてよかった。

 調査員が予算で減った話、少しだけ笑った。クロヴェルでも、地味な理由があるのだと思うと、少し気が楽になった。

 一年後、王宮に立つ時の顔は、自分でもわからない。でも、その日を一緒に迎えたい人が、何人かいる。あなたもその一人だ。

                                         ――エリナ――

 書いてから、「一緒に迎えたい人が何人かいる」という一行を少しだけ見た。

 フィオナに、そういうことを書いたのは初めてかもしれない。

 でも、本当のことだから書いた。

 夜、エリナは机に向かって、今日一日を整理した。

 残り四ヶ月の課題。学院データの活用。普及経緯の記録。成分分析への対策。調査員の動向。

 やることは、まだたくさんある。

 でも、一つ一つは、対処できる。

 対処できないかもしれないと思った時も、フィオナがいた。ゴードンがいた。レインがいた。

 一人でやっているのではない。

 その実感が、最近は以前より強い。

 エリナはペンを持って、作業リストの横に小さく書いた。

 今日、笑った

 フィオナの『意外と地味な理由』という一行で、笑った。

 それを記録しておきたかった。

 なぜ記録したいのか、うまく言葉にできない。

 でも、こういう日があったということを、残しておきたかった。

 相手に知っていてほしいから書く、とレインは言った。

 今日の『笑った』を、レインに知っていてほしいと思った。

 次の手紙に、書こうと思った。

 窓の外の空が、完全に暗くなっていた。

 今朝、空が白くなっていくのを見ながら、四ヶ月という数字を受け取った。

 今夜、その四ヶ月の最初の一日が終わろうとしている。

 一日で、何が動いたか。

 学院データの活用方針を決めた。普及経緯の記録を開始した。成分分析への対策を立てた。フィオナの情報で、議事録という武器を知った。

 一年前の自分が今日を見たら、やはり驚くと思う。

 一日でこれだけ動けるようになったことを。

 一人でではなく、何人かで動いていることを。

 そして——笑えるようになったことを。

 ランプを吹き消した。

 エリナ・アッシュフォード、八歳。

 残り四ヶ月の最初の一日が、終わった。

 今日は、笑った。

 それが今夜、一番大事なことだった。

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